赤福心中

「この赤福で、一緒にあの世に行って欲しいんだ」

日焼けしたシュガーハイ

外はじわりと暑く、不愉快な汗が全身から流れ出す。耐え切れない熱気とは裏腹に太陽は顔を隠しているが、情熱だけは地上まで届けているらしい。仕事をサボっている雲を睨みつけ、僕は駅の方へ歩きだす。今日は友達と久しぶりに岩盤浴に行く予定だ。僕らは毎回銭湯や温泉、岩盤浴に行く。高校の時からの親友で、裸の付き合いはそのころから変わらない。前回は箱根まで足を伸ばしたので、今回は近場にした。横浜だ。

煌びやかなイメージのみなとみらいと比べると、横浜は暗いダウンタウンを思い出す。真っ黒い地面には何かしら落ちていて、空気はひんやり湿っぽい。人々には疲れ果てていて活気がなく、元気があるのは飲食店の呼び込みとネオンサインぐらいだ。いつまでも工事中の駅を抜け出し、百貨店にあるベンチに座って生気がない人々を眺める。約束の時間になっても友達は現れず、僕は溜息をつく。友達はいつも必ず遅刻してくる。それでも僕は集合時間に着くようにしている。それが正しいことであると訴えるために。

入り口は3階にあった。壁が白くて清潔な大理石のように見える。海が綺麗なスパリゾートライク、南国風の装いだ。従業員はアロハシャツ着用で、作り物のハイビスカスがそこかしこに飾られている。遅れてきた友達は、奢るよ、と言って受付で会計を済ませる。館内の見取り図はわかりづらく、多彩なマッサージ屋と飲食店が沢山ある。肝心の更衣室は一つ上のフロアで、タオルや館内着が貰えるフロントの横にあった。

岩盤浴が3種類とサウナが3種類、それに大浴場があり、休憩室にはフカフカの1人用ソファやハンモックがある。ひとまず僕らはお目当ての岩盤浴へ向かう。休日だというのに中は空いていて、一番暑そうな岩盤浴は僕らしかいなかった。人目を気にせずに僕達は近況を話し、昔を懐かしみながらたくさん汗をかいた。そして、同じぐらいたくさん水をゴクゴク飲んで、僕らはまた同じくらい汗をかいた。

すっかりデトックスして気持ちがよくなった僕らはフカフカのソファで休憩をすることにした。身体の芯からぽかぽかしていて、ゆるやかなエッジが効いた一人用のソファは催眠術のように眠気を誘う。夢心地だな、と心から思った。ウトウトとしていたところで、隣から小さな呻き声とドスンした大きな音がした。驚いて起き上がると、同じくウトウトしていたはずの友人が地面に落ちていた。

「結婚するんだ」

起き上がるのを手伝おうと手を差し伸べると、真面目な顔をしてそう呟いた。幸福のひと時から落ちた後に言うことではないだろうと思った。なんでいま言うんだよ、と差し伸べた手で起き上がる友達を手伝い、そのまま握手して祝いの言葉を言った。照れながら感謝を述べる友人の顔は、高校生の頃よりずっと大人びて見えた。相手の子はとても良い子で、立川出身だと言う。

外に出るとすっかり暗くなっていて、僕らはいつものようにうどん屋に入った。ありがたいことに、青春時代を一緒に過ごした僕らはいくつかの同じものが好物である。熱々の揚げ物とコシの強いうどん。そしてデザートにバスキンロビンスを食べた。ピリリと冷たくて、酔っ払ってしまいそうな甘さに二人ともうっとりしつつ僕らは昔のように並んで帰路を目指す。空っぽになった身体に星空と砂糖が溶けていき、僕らは現実の続きに戻った。

音楽中毒はカエル好き

お気に入りの曲が微かに聞こえるボリュームで流れている。さっきまで見ていたものが夢なのだと知り、目をこすって現実をはっきり受け止める。恋人が隣でまだぐーすか寝ている。ぐーすか。世間は国民の祝日らしく、二人とも一応国民であるので、こうしてベッドで怠惰な時間を過ごしている。穏やかな寝息が聞こえるので、恋人はまだしばらく起きないみたいだ。カーテンの隙間から日が入ってきていて、春が近いことがわかる。

1週間分の洗濯物を済ましているうちに恋人が起きてきた。寝ぼけ眼でウクレレを手に取り、流行りの曲を弾き始める。彼は天性の音楽家であり、そして音楽中毒だ。彼の周りには常に音楽が溢れていて、もし音楽がその場に存在しない場合は自分で奏ではじめたりする。いまみたいに。1曲弾き終えて、彼はお腹が空いたと言った。さっきまで流れていた春の曲の気分につられたせいか、なんだか外に出たい気分になったので、遅いブランチは中華街まで足を延ばすことにした。

駅に向かう道の途中で、恋人が最近買ったという『オモチャ』を紹介してくれた。ペカペカしたプラスチックで出来た橙色の奇妙な形の物体。彼はそれを口と鼻に密着させて音を鳴らしてみせてくれた。ノーズフルートと呼ばれる鼻笛の一種で、とりあえず吹いてみろ、と無言で差し出された見慣れない楽器をおもむろに受け取る。見様見真似で息を吹き込むと、外れた音しかでない。口を開けたまま鼻から息を吹き込むんだよ、とニヤニヤした顔の音楽家に言われ、やってみてもなかなか難しい。道行く人々に奇妙な目で見られながら(比較的大きな音が出る)、駅に着く頃にやっと音が出せるようになった。どうやら開けた口の大きさで音色を変化させるらしい。なるほど、口を開けていないと変な音しか出ないわけだ。僕の音にすっかり満足した顔の音楽家に楽器を返し、これから駅に向かう途中は全部レッスンになるんだろうかと心配しながら改札を通り抜けた。

中華街はいつ来ても混んでいて、その喧騒がとても懐かしく感じる。あの独特の蒸し器の匂いや煌びやかで雰囲気のある建造物、自分本位で人目を気にしない観光客。友人に教えてもらった中華粥の店(さっぱり味付けされたもつも美味かった)で大満足した僕らは、食後のデザートを探して歩いた。果物を凍らせて作る氷菓や様々な種類のアイスクリームに心が躍る。でも結局僕はタピオカドリンクを飲み、恋人は肉まん(!)を食べた。僕の恋人はいつも食べ過ぎだ。

大きめの通りにある東南アジア系の服屋兼雑貨屋で恋人がそれを見つけた。その店は色鮮やかで民族的な鞄や涼しくて肌触りの良い生地の服などが置いてある。自然的でスパイシー、そして多彩な音がするBGMが僕の胸をドキドキさせた。木でできた籠(僕にはこれがどうやって作られているのか全く想像できない)の隣、雑多に置かれた小物たちの中にそれはあった。小さなカエルの置物で、色の違う3匹がセットになっている。柔らかなプラスチックのような素材でできていて、しっかりとした水かきやクリクリした目もとてもキュートだ。恋人も僕も一目で気に入った。

鼻笛を交互に吹きながら家に帰ってきた後、恋人はそれをトイレに置くことに決めたらしい。綺麗に彩られたカエルはリアリティがある造形で、積み重ねた文庫本や雑誌のそばに置くとこっそり忍び込んできたように見える。「忍者蛙三人衆」と名付けた恋人のセンスを疑い(彼は日本好きの外国人ライク、NINJAが大好きである)、こんな狭いトイレでキュートな忍者蛙に殺される人のことを考えた。きっと本望ではないだろうし、そのままトイレに憑かれても困るなぁと思ったので、なるべく良いトイレにすることにした。ひとまず芳香剤を置こうと決心する。

もしかしたらもう誰か死んだのかもしれない。用を足している間、そんなことを思った。なんだか胸がざわついてしまったので、大きな音で音楽を流し、それに合わせて鼻笛を吹いた。僕なりの鎮魂歌だ。忍び込んできているカエル達も一緒に歌ってくれている気がして頼もしい。ドアの向こうから恋人に何しているのと聞かれたが、死者のために無視する。ズボンとパンツを下げたまま、僕は鼻笛を吹き、カエルに殺された人達を想った。

十分すぎるほど死者を弔い、すべき用を済ませた。満ち足りた気分でドアを開けると、すぐさま怖い顔をした恋人にたんまり怒られた。夜に大きな音を出したり笛を吹くのは近所迷惑だよ、それにトイレにまでノーズフルートを持って行くなんて、君の方がよっぽど音楽中毒じゃないかーー。

夜中にふと目が覚めた。お気に入りの曲が微かに聞こえるボリュームで流れていて、さっきまで見ていたものが夢だと気付く。隣には恋人がぐーすか寝ている。音楽中毒。スピーカーから流れる曲を止め、無音になった部屋で考える。少なくとも。僕は声に出して言ってみる。少なくとも、僕はカエル好きだ。ピトピトと降り始めた雨音が聞こえる。カエルがどうしたの、と恋人が言った。僕はびっくりしたが、起きた恋人はそのままトイレに行ってしまった。すっかり呆気にとられたが、雨が降ってきたことを思い出し、僕も起きて濡れた洗濯物をしまう。トイレから控えめな旋律が聞こえてきて、僕は安堵した。死者も忍者も音楽家も、狭いトイレの中にいた。

火星で食べるイチゴの味は

その日はとても遠くの駅で待ち合わせた。

路線の終点なので、この駅行きの電車をよく乗っていた。世界の果てだと思っていた駅にまさか自分が来てしまうとは夢にも思わなかった。電車を降りた後は街の喧騒に驚き(世界の果てにも人は住んでいるらしい)、人の多さにウンザリしてしまう。ここにくれば少しは減ると思っていた人混みが、十二分に僕を疲労させた。もし人のいないところへいかれるならどこへでもいきたい。例えば火星とか。きっとdocomoあたりなら電波は通じると思うし、最悪PocketWiFiを持ち込めば地球となんら変わらない。Amazonだって配送してくれるだろう。僕はプライム会員なのだし。

 

地球を出る計画を立てながら待ち合わせた友人達と会い、モノレールに乗った。初めて乗る路線で、しかもモノレールだ。一体どういう原理でこの乗り物が動いているのかよくわからないし、電車との違いもよくわからない。でもワクワクする。先頭車両に乗り込み、一番前の席を陣取る。出発してすぐ高いところを猛スピードで進んでいく。世界の果てにあった街が後ろに消え、世界の果ての向こうにある世界があらわれる。いくつもの世界の果てを通り過ぎているうちに、世界に興味がなくなってしまった僕は久しぶりの友人達と近況報告をしあう(久しぶり会ったことさえ忘れてしまっていた)。そして僕達は目的の地に着いた。

 

農園は駅の近くにあり、大きな看板が出ていたのですぐにわかった。甘くて小さくて赤い果実を食べるためにこんな果ての地まで来た僕達は、農園前の立て札を見て愕然とする。

『本日は売り切れです』

これ以上先へは進めない、つまりここが本当の世界の果てだ。僕はそう確信した。そして、ここには絶望がある。

 

途方に暮れた僕らは、世界の果ての果ての果てのそれまた果ての、そのまた果ての果ての港町で遊ぶことにした。この世界の果ては観光地らしく、ここにもたくさんの人がいる。火星が恋しい。火星にイチゴ農園があったなら、毎週のように通うだろう。ビニールハウスがあればなんら地球と変わらずイチゴは育ち、そしてなにより、売り切れということは絶対にない。

 

港町から大きな橋を渡り小さな島に渡る。よくわからない神社の階段を登り、お金を払って動く階段に乗り、庭園のある塔を登って、見晴らしのいい場所に出る。とても高くてドキドキする。でも世界の果ての向こう側には果てしなく海が広がっていて、それはとても素晴らしかった。しかし火星にも素晴らしい景色はあるだろう。だいいち水の塊なんて下品である。クレーターの方が何倍も品がある。

 

見下ろした先の洞窟まで歩く間に腹ごしらえをした。新鮮な海鮮物を油で揚げ、炊きたてのごはんに乗せた料理を食べ、出来たてのアツアツ饅頭を食べ、ナッツ系クリームの不思議なクレープを食べた。食い過ぎである。火星に行ったらダイエットをしなくてはいけない。火星にもプール付きフィットネスジムがあるといいのだが。

 

薄暗くて少し暖かい洞窟を出た時、僕達はすっかり疲れきっていた。スピーカーから流れる人工的に作り出された洞窟の音(壁にあるスピーカーが存在感を放っていた)、センサーを使用した宗教チックなアトラクション、整備されていない道で行く手を譲ろうとしない観光客。全てに落胆した僕達は、徒歩で帰ることを諦めて船に乗った。小型の船で、それでも30人ほど乗れるようだった。満杯まで乗った船は10分ほどで港町まで帰ってきた。今まで誰がこんな船に乗っているのか理解できなかったが、今ならば説明できる。全ては策略だったのだ。行きの動く階段も、洞窟までの長い道のりも、不吉で人工的なBGMも、この船に乗せるための布石だったのだ。ああ、なんということだろう。

もうこんなところにはいられない。気付いてしまった島の陰謀を友人達に伝え、逃げるように僕は火星に向かった。人の想いも策略も売り切れもなにもない希望の地へ。空港へ向かう電車の中で、僕はNASAに電話して次の火星行きの便は空いているか聞いた。NASAの受付のお姉さんは優しい声でこう答えた。

 

『本日は売り切れです』