赤福心中

「この赤福で、一緒にあの世に行って欲しいんだ」

音楽中毒はカエル好き

お気に入りの曲が微かに聞こえるボリュームで流れている。さっきまで見ていたものが夢なのだと知り、目をこすって現実をはっきり受け止める。恋人が隣でまだぐーすか寝ている。ぐーすか。世間は国民の祝日らしく、二人とも一応国民であるので、こうしてベッドで怠惰な時間を過ごしている。穏やかな寝息が聞こえるので、恋人はまだしばらく起きないみたいだ。カーテンの隙間から日が入ってきていて、春が近いことがわかる。

1週間分の洗濯物を済ましているうちに恋人が起きてきた。寝ぼけ眼でウクレレを手に取り、流行りの曲を弾き始める。彼は天性の音楽家であり、そして音楽中毒だ。彼の周りには常に音楽が溢れていて、もし音楽がその場に存在しない場合は自分で奏ではじめたりする。いまみたいに。1曲弾き終えて、彼はお腹が空いたと言った。さっきまで流れていた春の曲の気分につられたせいか、なんだか外に出たい気分になったので、遅いブランチは中華街まで足を延ばすことにした。

駅に向かう道の途中で、恋人が最近買ったという『オモチャ』を紹介してくれた。ペカペカしたプラスチックで出来た橙色の奇妙な形の物体。彼はそれを口と鼻に密着させて音を鳴らしてみせてくれた。ノーズフルートと呼ばれる鼻笛の一種で、とりあえず吹いてみろ、と無言で差し出された見慣れない楽器をおもむろに受け取る。見様見真似で息を吹き込むと、外れた音しかでない。口を開けたまま鼻から息を吹き込むんだよ、とニヤニヤした顔の音楽家に言われ、やってみてもなかなか難しい。道行く人々に奇妙な目で見られながら(比較的大きな音が出る)、駅に着く頃にやっと音が出せるようになった。どうやら開けた口の大きさで音色を変化させるらしい。なるほど、口を開けていないと変な音しか出ないわけだ。僕の音にすっかり満足した顔の音楽家に楽器を返し、これから駅に向かう途中は全部レッスンになるんだろうかと心配しながら改札を通り抜けた。

中華街はいつ来ても混んでいて、その喧騒がとても懐かしく感じる。あの独特の蒸し器の匂いや煌びやかで雰囲気のある建造物、自分本位で人目を気にしない観光客。友人に教えてもらった中華粥の店(さっぱり味付けされたもつも美味かった)で大満足した僕らは、食後のデザートを探して歩いた。果物を凍らせて作る氷菓や様々な種類のアイスクリームに心が躍る。でも結局僕はタピオカドリンクを飲み、恋人は肉まん(!)を食べた。僕の恋人はいつも食べ過ぎだ。

大きめの通りにある東南アジア系の服屋兼雑貨屋で恋人がそれを見つけた。その店は色鮮やかで民族的な鞄や涼しくて肌触りの良い生地の服などが置いてある。自然的でスパイシー、そして多彩な音がするBGMが僕の胸をドキドキさせた。木でできた籠(僕にはこれがどうやって作られているのか全く想像できない)の隣、雑多に置かれた小物たちの中にそれはあった。小さなカエルの置物で、色の違う3匹がセットになっている。柔らかなプラスチックのような素材でできていて、しっかりとした水かきやクリクリした目もとてもキュートだ。恋人も僕も一目で気に入った。

鼻笛を交互に吹きながら家に帰ってきた後、恋人はそれをトイレに置くことに決めたらしい。綺麗に彩られたカエルはリアリティがある造形で、積み重ねた文庫本や雑誌のそばに置くとこっそり忍び込んできたように見える。「忍者蛙三人衆」と名付けた恋人のセンスを疑い(彼は日本好きの外国人ライク、NINJAが大好きである)、こんな狭いトイレでキュートな忍者蛙に殺される人のことを考えた。きっと本望ではないだろうし、そのままトイレに憑かれても困るなぁと思ったので、なるべく良いトイレにすることにした。ひとまず芳香剤を置こうと決心する。

もしかしたらもう誰か死んだのかもしれない。用を足している間、そんなことを思った。なんだか胸がざわついてしまったので、大きな音で音楽を流し、それに合わせて鼻笛を吹いた。僕なりの鎮魂歌だ。忍び込んできているカエル達も一緒に歌ってくれている気がして頼もしい。ドアの向こうから恋人に何しているのと聞かれたが、死者のために無視する。ズボンとパンツを下げたまま、僕は鼻笛を吹き、カエルに殺された人達を想った。

十分すぎるほど死者を弔い、すべき用を済ませた。満ち足りた気分でドアを開けると、すぐさま怖い顔をした恋人にたんまり怒られた。夜に大きな音を出したり笛を吹くのは近所迷惑だよ、それにトイレにまでノーズフルートを持って行くなんて、君の方がよっぽど音楽中毒じゃないかーー。

夜中にふと目が覚めた。お気に入りの曲が微かに聞こえるボリュームで流れていて、さっきまで見ていたものが夢だと気付く。隣には恋人がぐーすか寝ている。音楽中毒。スピーカーから流れる曲を止め、無音になった部屋で考える。少なくとも。僕は声に出して言ってみる。少なくとも、僕はカエル好きだ。ピトピトと降り始めた雨音が聞こえる。カエルがどうしたの、と恋人が言った。僕はびっくりしたが、起きた恋人はそのままトイレに行ってしまった。すっかり呆気にとられたが、雨が降ってきたことを思い出し、僕も起きて濡れた洗濯物をしまう。トイレから控えめな旋律が聞こえてきて、僕は安堵した。死者も忍者も音楽家も、狭いトイレの中にいた。